他人が他人の生死を、それもあたかも生殺与奪を握っているように錯覚するということは、許されないことなのではないでしょうか?
今月26日放送NHKハートネットtv
「模原障害者施設殺傷事件」から1年。
NHK福祉ポータル番組「ハートネットTV」で障害者の特集が組まれた。
…インターネットではどんな風潮があるか知らんが、私は19人もの大量殺人を犯した犯人を決して許すことは出来ない。
そして、彼の愚かな行いを肯定する一部のネット住民にもだ。
その怒りの丈は、私が去年まで書いていたブログで述べている。
完全に旬を過ぎた感はあるが、これだけは何らかの手段で伝えたかった。
まず、先に結論として、
犯人・植松聖容疑者には一片の情も欠ける必要はなし。
極刑に処されるのは当然でいうに及ばず、この19人殺しという歴史に残るような大殺戮者を英雄視する見方は即刻やめろ!!
インターネットには、所謂犯人の思想への「共感」ともとれる見方がある。某掲示板などでは、犯人の行為を英雄視し祭り上げるという始末。
前提として、通常の事件報道などで受け手が感受するのは、残された遺族の無念や怒りに共感すること。
で?
今回の事件は?
被害者が障碍者だから共感できないってか?
アホか!
どんだけ想像力ないねん!
日頃からネットに張り付いて、他人の恣意的な意見しか見てないからこうなる!
それを全体の総意として捉えるから思考停止して自分では何も考えず、わかったようなことを言う。
だから大した知識もないくせにTwitterだのユーチューブだので声が大きいだけのネトウヨやサヨがはびこる!
脳を使ってないから想像力がまったく足りてないんですね~
生産性の無い人たちってのはこういうことを言うのでしょう。
そのくせ犬や猫が殺されたら滅茶苦茶に騒ぐんですよね~
あまつさえ、「障碍者の子供持って邪魔だったろうから死んでよかったな、親は犯人に感謝しろよ」という意見まである始末。
まあ、こう思っている親も実際にいるとは思う。
だが逆にだ。
息子を殺されて本当に悲しんでいる親が1%でもいると考えることが出来ないというのはどういうわけか?
本当に悲しんでいる遺族を目の当たりにしないと、共感も出来ないわけか?
人間なんてのは、頭にバットでフルスイングされれば重度の知的障害が残る可能性が高い。
人種差別の肌の色と違って、誰にでも現実的に起こりうる問題なのだ。
それを言うに事欠いて「障碍者は人間ではない」と。
まとめる。
なるほど、障碍者は考え方、捉えようによっては「人間ではない」かもしれない。
だが、残された遺族のことを深く思慮し、思いやれない人間はカスだ。
小学校の読書感想文で高得点を取るコツ。
それは「登場人物になりきること」である。
最後に村上春樹の「海辺のカフカ」より、私の人生の最大の訓としている文を引用して締めくくりたいと思う。
というか、これを読むだけで今回の事件の本質なんてケリがつくんだよ。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から生まれる」
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないのか――もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない」
【障碍者19人殺人】相模原知的障碍者大量殺人事件について、私はネットのカス共に言いたいことがある|そしてまた星たちは輝く
別の方のコラムだが、こちらも読んでおくといいと思う。
…さて、あの事件から1年が経ち、事件そのものは風化の兆しすら見えているわけなのだが、この番組ではリアルタイムで視聴者のコメントが寄せられていた。
その中にこんなコメントが…
潜在的な差別意識
残念ながら、事件後から1年が経った今、むしろこのような差別的な感情は顕在化してきているという感すらある。
まあこのコメント自体はネタ感があるのだが…
こういったコメントを見て傷付く人が大勢いるだろうに…結局、相手がされて嫌な事はやめようねっていう小学生レベルの話になるわけで。
自分のこどもに障害があったらどうするの?
というより、なんで私がこの記事を書こうと思い立ったかは、いつも私が読んでいるブログにこんな記事が上がったわけで。
私のこんな記事読むよりも、こっちを読んだほうが考えさせられるかもしれない。
漫画『ブラックジャックによろしく』の新生児編では、待望の我が子が障害児だった夫婦が「そのまま死なせてくれ」と指導医に乞うている。そこから主人公・斎藤の葛藤と奮闘が展開されるわけだが、実際に自分の子供が障害を持って生まれたと医者に宣告されたら、貴方はどうするか?
理屈ではない、現実の先
それでも腹を痛めて産んだ自分の子。確かに、厄介ものと思っている家族はいるかもしれない。
葛藤、苦しみ、選択。それらを乗り越えて家族になることを選択したのだ。
植松被告は、こういったバックグラウンドを全く想像も出来ずにただ、差別的感情のみであれだけの人間を殺傷したのである。
差別は無くならない。ポストモダン化するインターネット社会の中で、「差別は悪いことだ」という共通の価値観すら消失してしまっているようにすら思える。これは感受性の問題なのだろうか。
ただただ、やるせない。
「この社会は障害者にやさしいですか…?」
「昔よりは良くなっていると思います」
「本当にそう思いますか?障害者に対する差別的な言動をタブーにしただけで差別自体はなくなっていません。妻は息子がダウン症であるとわかって泣きました。なぜならダウン症である息子とその親になる自分を”かわいそう”だと思ったからです。これも一種の差別ではありませんか?」
「それは責められませんよ それが人間の感情ってもんです」
「そこに悪意はありません」
「そうです 悪意はないのです だから差別は無くしがたい」
『ブラックジャックによろしく』4巻より
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