この時期にまさかのインフルエンザに罹りました。
咳をしても一人
日曜から怪しかったのですけれど、今思えば潜伏期間だったのでしょうな。火曜に会社から戻ってきたら、まさかの39度近い高熱。
東京で初めての風邪、しかも独り暮らしですから、それこそきつかったです。
高熱で身体の節々が痛むにも関わらず、重い身体を動かし買い物、病院に歩いて向かわなきゃいけないってのは苦痛以外のなにものでもない。
で、結局病院での診断は「B型インフルエンザ」。
やっと熱が下がったかと思えば酷い下痢。腹に何も吐くものが無いのに吐き気にも襲われました。ほんましんどい。幸いにも、若者特有の体力と薬の力で今は多少よくなりましたけど。
でも、やっぱり都会に出稼ぎに来とるわけですから、いくら病気で苦しくとも一人だけです。己が力でなんとかせないかん。
そんな己が状況を顧みてふと思い浮かんだのが「咳をしても一人」。
私はこの「咳をしても一人」、正岡子規が残した句だと思っていたのですが、調べたらどうやら違うようです。
と、いうか、昔私が読んだ本で「正岡子規が残した名句」とか確かに書かれていたのですがそれは…
したらば、誰が考えた句なんだという話ですが
尾崎放哉
という俳人です。
彼は東大出で出世街道を歩んできたスーパーエリートでありながら、突然世捨て人同然
の生活を送るようになり、俳句三昧となります。
やってることは仙人みたいなことですが、この人けっこう人間的に問題があったらしく、
放哉の伝記的小説を書いた吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、保険会社の寮母として生涯を送った。放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の八ヶ月を小豆島の西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった。吉村が1976年に取材のため島を訪ねた時、地元の人たちから、「なぜあんな人間を小説にするのか?」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。
(出典:Wikipedia)
…と、まあなんのことはなくダメ人間というか、自己評価が高い故に周りから疎まれるようなタイプだったわけですな。
…咳が酷くなってきたので今日はもう横になります。